へこんだもの、
削られたところ、
負ってしまった傷、
そんなものからしか
薫り立たないものがある。
ときにそれは、強烈な色香となり
だれかの心を絡め取るようにして
離さなくなる。
歳を重ねるごとに
くたびれ、みすぼらしくなるか、
色香を増すか。
その違いは、
きっと、自分の人生を引き受ける覚悟の差。
どんな境遇も他者のせいにしない、
と、ただ決めること。

へこんだもの、
削られたところ、
負ってしまった傷、
そんなものからしか
薫り立たないものがある。
ときにそれは、強烈な色香となり
だれかの心を絡め取るようにして
離さなくなる。
歳を重ねるごとに
くたびれ、みすぼらしくなるか、
色香を増すか。
その違いは、
きっと、自分の人生を引き受ける覚悟の差。
どんな境遇も他者のせいにしない、
と、ただ決めること。

私は会話の中でよく、「あの人は本物だ」と言っているらしい。
全く無自覚であった。
あるとき、
「ところで、あなたのよく言う“本物の人”って、どういう人のことなの?」
と訊かれて、ハタと考えた。
本物かどうかなんてものは、
勝手に感じとれちゃうものでしょ
が、そのときの私の答えだったからだ。
だが、言語化してみようと
しばしあちこち散歩しながら考え、
辿り着いたのが、「根の深さ」である。
本物の人には、
深く広く張った「根」がある。
それは、何かに対して
真摯に向き合った時間によって育まれ、
存在するものである。
樹々のそばに立ち、幹に触れれば、
根の深さは感じ取れるように、
その人のそばにいて、その人の言葉や声に触れれば
伝わるものがある。
そして、そう言う人は自分の根について
決して自慢げに語ったりはしない。
今、便利な時代となり、
時間をかけずともできることが多くなった。
職人が時間をかけてこれまで作り上げてきたものも
最新の3Dプリンターを使えば、一瞬でできたりする。
しかし、見た目はほぼ同じであっても、どこか違うと
人間は感じとれるものではないだろうか。
また、どれだけ豊富な知識を持っていようとも
口先だけの人と、手を動かしてきた人の違いは
すぐにわかるものである。
ちゃんと発する「気」があるのだ。
今、TVで若いコメンテーターが物知り顔で
年配のアナウンサーにどこか偉そうにモノ言う様子をみて
ちょっと毒づきたくなった。
そして、自分のことはすっかり棚上げしていることに
ついては、どうか目を瞑っていただきたい^^

今日、出逢った
人生の先輩の言葉が
まだ胸に渦巻いている。
「君は、人生は何のためにあると思うかね?」
「私は、そうですね…
愛を学ぶためにあるのだと思います」
「では、愛さえあれば生きていけると思うかね?」
「う……愛があれば生きていける……と、思います」
「いや、愛だけでは、生きていけないものだよ。
人間は、生きがいや、存在価値などを自分で持ててこそ、幸せでいられる。
それがない状態で誰かを深く愛せるかというと、難しい。
また、それがない状態で誰かに愛されても、難しいものだよ。違うかね」
「……」
「僕はね、この歳になり、なんだかますますそう思うんだ」
70代写真家と
50代文筆家の会話である。