つれづれ

因果応報

チベット仏教を学びはじめて1年半が経った。
明瞭に人生の教えが説かれていて、恐ろしいほど刺さる。

もちろん、門前に立たせていただいたに過ぎず、
偉そうなことは何も言えない。

ただ、たった1つのことを知り得たことで、
私の心に波風が立つことが減り、安らぎのときが俄然増えたのである。

「全ては、因果応報。」
との言葉である。

もちろん、この四字熟語を知らなかったわけではない。
しかし、こうわかりやすく説かれると、自分でも驚くほど腹落ちした。

「苦しみ」は「悪業」から生じ、
「楽」は「善業」から生じる。

この言葉を胸に当ててみる。
「心が苦しい」という状況は、確かに
自分がやましいことをしている時だけに生じる。
誰にバレなくとも、やましいものを抱えているときに
心の安寧が訪れることはない。

また、状況的に、経済的に苦しい
というのは、誰にでも不意にやってくる。
大変な苦労を抱え、時には
死を考えるほどの絶望の淵に立つことがあるかもしれない。

だが、どれほど大変な状況であっても、
必ず、世は明け、日が昇るものである。
それに比べ、自分の行動によって生じてしまった暗闇は
どれほどの晴天に恵まれても、完全に消えることはない。


また、「善業」というと大層なもののように聞こえるが、
シンプルにいうと「利他の心」になる。
自分より、誰かのお役に立つことを喜びとして過ごしていると、
結果として、自分に「楽」がやってくるというものである。

決して自分を犠牲にして誰かのことを優先せよ、
というのではないのでご安心を。

50年も生きていれば、
真の喜びは、自分のことだけを考えていては
やって来ないことがわかる。

自分の目標達成だけを追い求め、何かを得ても
そばで、遠くで、喜んでくれる人がいない限り、
人は心からは幸せにはなれないのである。

いいことをしてると、いいことがやってくるよ。
わるいことをしてると、苦しい思いをすることになるよ。

いたって教えはシンプルである。

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