Japan Craft Book メールマガジン

【vol.6】威容を誇る神殿の前で

 

焼火神社の社殿を初めて見た衝撃は想像以上のものでした。

身を巌に半分突っ込んだ、もしくは、巌から生え出るようにともいえるこの威容を前に、言葉をなくしました。

 

 

 さて、焼火神社の創建は平安時代。一条天皇の頃といわれています。

旧暦12月30日の夜(大晦日)、海上から火が三つ浮かび上がり、その火が現在の社殿のある巌に入ったのが焼火権現の縁起とされています。当初は大山権現や、飛来神ともいわれていたそうですが、両部神道の影響を受け、明治維新の廃仏毀釈までは真言宗の焼火山雲上寺でした。この地に立ってみて「雲の上の寺」に納得し、なぜ社殿がこのような姿で建てられたのかも縁起を知れば唸るばかりです。

 

それにしてもこのような社殿を建てようとした古の人たちはどんな会話をしながら建造していたのでしょう。「こりゃぁ、みんな驚くぞ」などと話していたのでしょうか。そんなことを想像すると、なんだか愉快な気分にもなります。そして、この写真にも写っている社殿を見下ろすかのように天に伸びる御神木も、その頃からずっとここに訪れる人たちを見守ってきたのでしょう。

ちなみにこの社殿は享保17年(1732)に改築されたもので、隠岐島の現存する社殿では最も古く、平成4年には国指定の重要文化財に指定されています。

 

 

焼火神社は、古くは栄花物語に「下もゆる歎きをだにも知らせばや 焼火神(たくひのかみ)のしるしばかりに」と記されており、その頃から中央にも知られていた存在であることがわかります。また、後鳥羽院が御渡島しの際、難風によって着すべき方を見失い、万策尽きてこの大権現に祈願したところ、神火が大きく灯り無事着岸されたことから、次のような御詠歌も残っています。

 

「千早振る 神の光を今の世に

 けさで焼火の しるしみすらん」 後鳥羽上皇

 

そして、安藤広重・葛飾北斎等の版画「諸国百景」には隠岐国の名所として焼火権現が描かれています。江戸時代には北前船の入港によって、焼火神社は海上安全の神としてさらに広く崇められ、現在も日本各地に焼火権現の末社が点在しています。

 

 

 

・・・と、このようなことをお話くださり、ご案内いただいたのが第21宮司 松浦道仁氏です。松浦氏は1952年生まれ。御神木のごとく、いかなるときも背筋がスッとのび、お背も高くて実にダンディな方です(駐車場から15分も歩くミニハイキングコースのような参道も、宮司は実に姿勢良く美しく歩かれるのでびっくりしました)。国學院学を卒業後、当時銀座にあった神社にてお務めされ、30歳を過ぎて隠岐に戻られたそうです。そのとき、「こんなもの(神社というシステム)が存続していくものだろうか」と考え込んだ、とのお話もしてくださいました。地方の神社はどこも存続していくこと自体が難しい時代となっているのです。

 

 

余談ですが、私の父は島根県安来市出身です。そして私の旧姓は「生和(にゅうわ)」といいます。このエリアにおいても珍しい姓なのですが、なんとなくこの姓に生まれた意味があるような気がずっとしています。また、松浦氏と初めてお目にかかったとき、お顔が父とどこか似ていて内心とても驚きました。そして、懐かしい祖母の顔を思い出しました。どうもこの地方ならではの「お顔つき」というものがあるような気がいたします。父はダンディとは程遠く、柔和なおじいちゃんという感じですが(笑)

 

そして、松浦氏のご厚意で私は拝殿に上らせていただくことができました。しばし一人の時間をいただき、静寂の中に身を置いているうちに、私は突然、はらはらと涙を流して泣き出したのです。いったい自分に何が起きたのか、すぐにはわかりませんでした。


Japan Craft Bookプロジェクト

代表  稲垣麻由美

 

ーつづくー

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