つれづれ

不安を消すために清める。

このところ、不安に押しつぶされそうなことが続いた。
不安は、自分の力で対処できないときに生じる。

ただ祈って待つしかない、という状況の中で
私がしたことは2つ。

ひとつは徹底した家の掃除。
もうひとつは、氏神さまへのお詣りだった。

普段から気になっていたけれど、
見ないふりをしていた場所の掃除を始めた。
ベランダに敷き詰めた木のタイルを全て剥がし、
溜まっていた土埃を徹底して払う。
ベランダのコンクリート面をゴシゴシとブラシで洗う。
無心で手を動かしている間は、心のざわつきを忘れることができた。

そして、近所の氏神さまへここしばらく毎日通っている。
もちろん、これまでも気まぐれにお詣りしていたけれど
毎日ではなかった。勝手なものである。

不安マックスの日、お賽銭箱に1万円を入れた。
お金で願いが叶うわけではないことは百も承知しいているが
「お賽銭」=「その神社の維持費・修繕になる」
という理屈上、たくさん寄進することは大きな意味があるのである。

そして、ここからが今回の私の気づきである。
氏神様に通った3日目の夕方、ある吉報が届いた。 
最大の懸念事項が1つ消えた。胸をなでおろした。

翌朝、まずはお礼の報告をせねば、と
氏神様に急いで足を運んだ。

そして、神前に立ったったとき、
これまで気づかなかったものに気づいた。
社にうっすらと溜まった土埃と足元にある落ち葉である。

ちなみに、その氏神様は、
住宅街のちょっと高い場所にある。
神主さんが常駐しておられるわけでもない神社は、
いつもピカピカというわけには行かないのだ。

でも、これまでは、土埃、そして石階段に落ちている葉っぱや
木の実をさほど気にしたことはなかった。
「だって、ここは鎮守の森の中にあって、葉っぱが落ちているのは当然」
ぐらいにしか思っていなかったからだ。

気づけたのは、きっと家をピカピカにした直後だったからだ。
普段は行かない、御社の後ろまでぐるっと回ってみた。
すると、数本の竹箒とちりとりを見つけた。

「そうだ、お礼の気持ちをちゃんと行動で示そう」
と思った。

私はずらりと並ぶ竹箒から、一番竹の穂が大きく広がっている
ものを選んで掃除を始めた。
場が綺麗になっていくほどに、心が落ち着いていくのを感じた。

その翌日も、また、通った。今も、通っている。
そして、また気づいた。

たった1日で、土埃はたまり、あっという間に落ち葉だらけだ。
ということは、毎日、誰かがずっとこの場を掃除してくださっていたのだ。
御目にかかったことはないけれど、確かにいる人の存在を感じた。
私がたった数日、掃除をしたぐらいでいい気になっていることが
恥ずかしくなった。

それから、竹箒は大きいものより、自分のサイズにあったもののを
選ぶことが肝要であることを知った。
この歳になってである(笑)

最初は箒もとにかく大きい方が効率がよいはず、と思ったのである。
でも、それより柄が握りやすい細めの方がいい塩梅に力が入って
うまく掃ける。力を変に入れ過ぎて、土を余計に掃いてしまっては、
場を清めるどころが場を貧弱にしてしまう。
考えてみるまでもなく、これは、人生のあらゆる面に共通する。

我を知れ。欲張るな。
自らを活かせる方法を考えろ。

・・・と、こんなことを日々学びながら
氏神様に通い続けて10日を過ぎた。
たった10日。

不安の種はまだ消えていない。
でも、どうしようもない現実の前に、あたふたするより、
無心になって場を清めることの大切さを実感している。

僧侶の方の1日がお掃除から始まる理由は
なるほどこういうことか・・・






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