自分の言葉がふわふわとしている気がして、
30代、40代はうまく話せませんでした。
どう話せば伝わるのか、というノウハウ的なことではなく、
自分の言葉に重力のようなものが
徹底的に欠けているように思っていたのです。
ただ「書く」という作業は「話す」ことと違い、
なんども推敲でき、借り物であっても
「重り」のようなものを後付けすることが可能で、
私にとっては自分を表現するのにありがたい手法でした。
そして、誰かをインタビューする度、
感じていたことがあります。
「どうしてこの人の言葉には重みがあり、
どうしてこの人の言葉は軽く聞こえるのか?」と。
それは、ずっと「体験と思索の深さの差」だろうと思っていました。
例えば、わかりやすい例を挙げると、
「戦争は絶対にいけない」という言葉を発する時、
戦争体験者と体験をしていない人では、
当然、伝わってくるものが違ってきます。
ただ、同じ体験者であっても
響いてくるものが違うことは多々あります。
「その差は、何か?」
そんなことを考え続けていたときに出逢ったのが、
「聞思修(もんししゅう)」という言葉でした。これは仏教用語です。
聞いて、よく考えて、心に馴じませていきなさい。
というものです。
もう少し詳しく説明すると、
誰かから素晴らしいお話を聞いたり、
何かを教えていただとします。
多くの場合は、「いいお話が聞けてよかった」
ぐらいで終わってしまいます。
ですが、大事なことは、
「伺ったその話は本当にそうなのか」
「自分はそのことに本当に納得しているのか」
とよくよく考えることです。
それが、「思」(し)になります。
釈尊自身も「私が言ったことだから、を理由に、
決して鵜呑みにしてはならない。
それが正しいかどうかよく自分で考え、
もし、本当に納得したのなら、それを何度も、
何度も思い起こし、心に馴染ませていきなさい」
とおっしゃっています。
立派な肩書きに弱い日本人は、
この「思」が特に足りないように思います。
かくいう私こそ、仕事柄そういう方達のお話を
聞く機会が多かった分、「思」が欠けたまま、
いつも耳障り良い言葉、インパクトあるメッセージを、
まるで自分が考えたことのように話していた気がします。
だから、自分自身の発する言葉に自信がもてなかったのだと、
今ならよくわかります。
そして、さらに大事なのが「修」(しゅう)です。
よくよく考えて納得したことを、
何度も思い起こして心に馴染ませていきなさい、というものです。
この3番目にまで到達した人の言葉には、
ブレがなく、重みが生じます。
聞思修の積み重ねが、その人の「軸」をつくる、とも言えます。
不安ばかりが広がる昨今、
聞思修を心がけることの重要性を強く感じています。
自戒を込めて。


